沢田研二

沢田研二は、本名「澤田研二」ニックネーム「ジュリー」として現在歌手・俳優・作曲家として活躍しています。
京都にあったダンス喫茶であるバイト中に、出演していた「サンダース」に声をかけられ、沢田はローディー兼ヴォーカリストとして加入しますが、同じく出演していた「サリーとプレイボーイズ」のメンバーからリード・ヴォーカルとして誘われ、当時高校生だった沢田研二は、高校を中退し1966年の元日に正式に「サリーとプレイボーイズ」メンバーとして加入したのが、芸能界への第一歩となります。
「サリーとプレイボーイズ」は、沢田が加入したのを機に「ファニーズ」と改称し、大阪にあったジャズ喫茶のオーディションに合格、専属バンドとしてローリング・ストーンズなどの洋楽コピーを演奏するようになったのです。
その時に内田裕也と田邊昭知に芸能界入りを勧められ、オーディションに合格してすぐに東京へ上京しました。
実は、初出演となったCX系列のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」の収録の日に作曲家「すぎやまこういち」によってバンド名を「ザ・タイガース」に変更させられたとのことです。
そして、1967年にシングル「僕のマリー」でデビューを果たすことになったのです。ニックネームのジュリーもこの頃に付けられたもので、沢田研二がイギリスの歌手「ジュリー・アンドリュース」のファンだったこともあり「ジュリー」と呼ばれるようになったそうです。他のメンバーにもニックネームが付けられていたそうです。
セカンド・シングル「シーサイドバウンド」と続く「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」でブレイクし、「ザ・タイガース」は瞬く間にトップ・アイドルとなっていきました。
しかし、ブームというものが急速に去っていく中で、沢田研二は初のソロアルバム「JULIE」をリリースし、それ以降は他のメンバーのソロ活動も多くなり、デビューから約3年で解散しています。
その後沢田研二は、いろいろな人とバンドを組んでいきますが、1973年にソロシングル「危険なふたり」で「第4回日本歌謡大賞」を受賞したのです。
ファッションにおいても「元祖ビジュアル系」とも言われています。
次々にソロシングルやアルバムを発売して、1975年にシングル「巴里にひとり」の仏語版「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」がフランスのヒットチャートでトップ10にランクインするなど、海外での活動も評価を得ています。
ドラマ主演となった「悪魔のようなあいつ」の主題歌「時の過ぎゆくままに」は、自己最高の90万枚を超えるセールスを記録したのです。
活動再開後のシングルは、「コバルトの季節の中で」と「さよならをいう気もない」などは2曲ともトップ10入りを果たしました。1977年に発売されたシングル「勝手にしやがれ」は約90万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末の主要な賞レースを独占した形になりその後も数々の賞を受賞しています。
また、歌手活動だけではなく積極的にバラエティ番組にも出演し、コントを披露したりしています。
最近では、歌も俳優業もこなしており、多くの有名アーティストに楽曲も提供しています。